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2007年11月11日

大奥のあの人…

於大の方という人物にあこがれます。

於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日))は初め松平広忠、のちに久松俊勝の夫人で、徳川家康の母として知られる。晩年は「伝通院」と称した。

於大は尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人於富の間に、父忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。(青山政信の娘で忠政の養女であったという説あり)父忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて間もなく於富の方を離縁し、清康に嫁がせている。

忠政は松平氏とさらに友好関係を深めようと考え、1541年に於大を清康の後を継いでいた松平広忠に嫁がせた。翌年暮れ(西暦では1543年初め)、於大は広忠の長男竹千代(のちの徳川家康)を生む。

しかし、忠政の死後水野家を継いだ於大の兄水野信元は、1544年、松平氏の主君今川氏と絶縁し、織田氏に従う。これにより広忠は於大を離縁せざるを得なくなり、信元の居城三河国刈谷城(刈谷市)に返された。

1547年には信元の考えで知多郡阿古居城(阿久比町)の城主、久松俊勝と再婚した。俊勝は元々水野氏の一族を妻に迎えていたが、その死後に水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらず、松平氏との対抗上その関係強化の必要があったのである。俊勝との間には三男三女をもうける。この間も家康との音信を絶えず取り続けた。

桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から自立し織田氏と同盟すると、家康は久松俊勝と於大の三人の息子に松平の姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。於大は夫久松俊勝の死後、剃髪して伝通院と号す。

1602年、秀吉未亡人北政所おねや後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示した。同年、家康の滞在する京都伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の伝通院に埋葬された。法名は伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。彼女の菩提寺は各地に建てられた。

於大の出生地東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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